リレー・エッセイ・会報68号掲載

■ 「新米カウンセラーであった頃
―心理学インターンとして過ごした日々―」

埼玉大学教授 茨木 俊夫

 大学院の博士課程に入学したその夏に米国ニュージャージー州のインターン生として留学することになった。1996年のことである。当時の臨床心理学会職能局が中心になって、臨床心理学博士過程の学生を米国に派遣するプロジェクトを制度化した留学第一号である。
 最初の着任先は州立の男子コロニーで、5歳から60歳以上までの収容施設である。定期的に診断を行い、カルテ箱に整理していく仕事である。東京教育大学の学部時代は特殊教育を専攻していた。知能検査、色覚検査、視野測定、聴力測定などにはよく親しんでいたので、さまざまなタイプの収容者を見ることが出来る環境は知的冒険のできる宝庫であった。
 着任後、州内のインターン生は週に一度合同研修があり、プリンストンのNPIに集まる。そこには専任の指導者がおり、臨床活動の様々な課題について教育訓練を受けることになっていた。
 私の課題は、自閉症の特徴を併せ持つ聴力障害のある児童の聴力診断であった。この子と付き合ってみて分かってきたのは、チョコレートの紙をカサカサこすると「ぱっ」と音の方を振り返ることである。教育大学時代に寿原健吉先生に聴覚音声生理学で鍛えられてきたので、何とかして正確な診断をしてみたいと思った。プリンストン大学のライブラリーで探した結果、Joseph E. Spradrin が1965年にオペラント条件付けの手法で聴力測定を試みていることが分かった。プリンストンに大きな邸宅を持つシリル・フランクス先生に、かねてから「としおの部屋を作ってあるから何時でも来い」と言われていたので、早速伺い、ここが私のプリンストン別邸となった。コロニーの研究室でオペラント条件付け手法を用いた聴力測定装置が出来上がったのは、こんな経緯であった。
 その後、2箇所目の研修施設となるJamsburg に移動することになった。同期生のインターンがベトナム戦争に従軍する事になり、私にとっては少年事件を担当する魅力もあったものの、彼がきっと戻ってくるよう祈って、そのポジションについた。
 少年の家では、収容者はほとんどがニューアーク近郊の町から補導されてきていた。社会復帰できるようなトレーニングを工夫してプログラムを作ったが、オペラント技法を用いて「トークン・エコノミー」場面を構成させると、子供たちの動きが活性化されることが分かってきた。